2012年2月15日水曜日

何気ない景色


イタリアの水田地帯。

そこには森があって、水路がある。

アルプスのわき水が豊富な土地。

数十年前のイタリアの農家。

そこには今の若者が使わないイタリア語が
たくさんある。

「alla buona」

家族のように、多少行儀悪くてもいいから
おかまいなく食べてね、という意味の言葉。
無礼講というのが近いかもしれない。ある人が
「今は言わなくなったな」と懐かしむように
言っていた。しかし、パヴィアの老人が話す田舎の方言は
まるで別の言葉のようでちっともわからない。

もちろん田舎特有の矛盾に満ちた
精神風土はあるけれど、人と人の距離が
数十年前と同じように近いままだ。何か
一緒に仕事をしてお客さんじゃなくなった時、
外国人という垣根は簡単に無くなってしまうのだった。

ワインの世界は、ちょっと特殊で、
見栄や理念、そういう箔を誰もが好む。
オリーブも、バルサミコも、イタリアを
代表する食材となると多かれ少なかれ
自尊心や誇張が入り交じるものだ。

ここは、そういう意味で本当の田舎。
昔ながらのイタリア。

2012年2月14日火曜日

われ、おもう

ミラノ生活も2年半。この間、いろいろな変化があった。

日本の陶芸が恋しいと思う事は度々だが、
せめてもの慰めとして、黒楽でお茶を飲んでいる。
茶道は毎週稽古があるので、ありがたい。

人生について語る事がよくある。ミラノに来る人は
何かしら理由や思いがあって来ていることが多い。

デザイナーの友人と語り合う。

まだまだ、自分を出し切れていない気がする。
閉塞感。人に合わせてもしょうがない。もっとやりたい事を磨きたい。
それで人を感化できるようになりたい。
これは、魂の行動原理のようなもので、かえられないし、
変えるときはこない。

友人はイタリアに来るのに、大企業の仕事を捨て、
数百万つぎ込んでイタリアに来て、学び、仕事を
したそうだ。目標としているところまで後少し。
人の下で仕事をするのもそろそろここまでと思っている
そうだ。自分の作品が世の中に出せるようになってきた、
と語る彼の裏に、いろいろなものが見えた。

自分の今の考えが小さく感じた。

自然農法圃場の記録撮影がてら、自分の写真を模索しながら
撮る事がある。手も付けられず、その写真はずっとパソコンで眠っていたが、
自分のライフワークはもうそこにある。

命あるものを撮りたい。植物の、自然の生命意思のようなものを
伝えたい。ブレッソンやドアノー、サラ・ムーンを勤めていた美術館で
見ていた日々。その時は、写真は畑違いと思っていたし、
「ブレッソンの疑問符」(サラ・ムーン制作のドキュメンタリー)を
見るまでは、ブレッソンが何なのかすらよくつかめないでいた。
いつのまにか写真を仕事で撮るようになり、その時つかんだものが
ライフワークの基礎になっていた。

コントラストの中に、自分の目で感じたものが写りだされて
行くのは面白い。写真を撮ると言う事は、沈思に似ている。