日本の陶芸が恋しいと思う事は度々だが、
せめてもの慰めとして、黒楽でお茶を飲んでいる。
茶道は毎週稽古があるので、ありがたい。
人生について語る事がよくある。ミラノに来る人は
何かしら理由や思いがあって来ていることが多い。
デザイナーの友人と語り合う。
まだまだ、自分を出し切れていない気がする。
閉塞感。人に合わせてもしょうがない。もっとやりたい事を磨きたい。
それで人を感化できるようになりたい。
これは、魂の行動原理のようなもので、かえられないし、
変えるときはこない。
友人はイタリアに来るのに、大企業の仕事を捨て、
数百万つぎ込んでイタリアに来て、学び、仕事を
したそうだ。目標としているところまで後少し。
人の下で仕事をするのもそろそろここまでと思っている
そうだ。自分の作品が世の中に出せるようになってきた、
と語る彼の裏に、いろいろなものが見えた。
自分の今の考えが小さく感じた。
自然農法圃場の記録撮影がてら、自分の写真を模索しながら
撮る事がある。手も付けられず、その写真はずっとパソコンで眠っていたが、
自分のライフワークはもうそこにある。
命あるものを撮りたい。植物の、自然の生命意思のようなものを
伝えたい。ブレッソンやドアノー、サラ・ムーンを勤めていた美術館で
見ていた日々。その時は、写真は畑違いと思っていたし、
「ブレッソンの疑問符」(サラ・ムーン制作のドキュメンタリー)を
見るまでは、ブレッソンが何なのかすらよくつかめないでいた。
いつのまにか写真を仕事で撮るようになり、その時つかんだものが
ライフワークの基礎になっていた。
コントラストの中に、自分の目で感じたものが写りだされて
行くのは面白い。写真を撮ると言う事は、沈思に似ている。
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